Translate

2013-10-01

SONY創辦人盛田昭夫的夫人回憶MJ





轉自http://www.wretch.cc/blog/weiwei90baby/11994261 翻譯: nikoniko
原文  http://www.akiomorita.net/contents/episode/index.html

2009年6月25日,Michael Jackson離開這個世界。


我與先生第一次看Michael的演出是在1987年的橫濱Stadium。
陶醉於他的音樂以及出色的舞技,我們從東京的家出發到橫濱Stadium,看完演唱會往箱根湖畔的別墅出發準備度過週末。

那時候沒有行動電話,路況也不好,半夜到達別墅後接到從東京家裡打來的電話:「剛剛Michael Jackson的經紀人打了好幾次電話來,Michael Jackson有話務必要跟盛田先生講,不論幾點都沒關係,請回電。」

我趕緊撥電話到他的飯店。
他說:「今天很感謝盛田先生來看我的演出。對於今天的演出不是100%滿意。聲音狀況也不好。下次的演唱會一定會比這次的表演更棒,請務必再來觀賞。」他道歉了好幾次。
對藝人來說沒有最棒的演出,只有為了呈現更棒的演出而更努力付出,或許人們稱這樣是執著也不一定。

他在日本時,來我家參加我的生日party。就是上面那張照片。
吃素幾乎不吃肉跟魚的他,一個人捧著我準備的一大盤當季水果『二十世紀梨』,回想起來當時在場的人連一口都沒吃到,這也成為我家閒聊話題之一。

之後他在我家發現昭夫的玩具,自動PIANO與音樂盒、STREET ORGAN的模型,還有埃及紀念館贈送珍貴的愛迪生RECORD,像個小孩子一樣快樂的過了一晚。
在日本停留時間,他也到了SONY本社、當時在信濃町的CBS SONY STUDIO、
SONY MEDIA WORLD、銀座SONY大樓,接連拿著SONY的新產品一直發問,對什麼都感到好奇的好好青年。

我們遵照約定去看了1992年的東京巨蛋演唱會。
在後台有專業攝影棚、總是在拍完照片幾天後附上簽名送給我們。

1996年12月、歷史巡演在東京巨蛋開唱。那時候昭夫已經病倒了(腦中風),已經忘了是什麼樣的經過,我去CAPITOL東急飯店接他,一起坐車到東京巨蛋。

車子周圍都被fans的車給包圍,也有人是包計程車追星的。等紅燈時他會從車窗伸出手,fans會塞紙張或是手帕給他。他很快的拿來簽完名,我則負責遞給歌迷。從飯店到東京巨蛋一路上幫好幾位FANS簽名,完全沒有不耐煩很快樂的簽著名,我一邊幫忙,一邊深深覺得他真的是位很溫柔的人。

他很期待跟我先生見面。
1995年發行"HIStory"他為了我先生特別製作獎章,並贈送親筆簽名CD。
他送來的獎章上面寫著“This Album Of My Music Warmly Dedicated To Akio Morita…永遠的友情 For Our Everlasting Frendship.We Are Living In The Same Dream Forever… With All My Love”

1993年10月,昭夫病倒時,國外第一個傳達慰問之意的就是Michael Jackson。他寄了自己錄製的療癒錄音帶。在錄音帶裡面他喊了好幾次「盛田先生、盛田先生」。「你一定會康復的。還能再度開口說話的。…」接下來是他選擇的安靜歌曲。再次重複好幾次的「盛田先生、…」。錄音帶外盒是他寫的,如下。



『請於早、中、晚,一天聽3次。Michael Jackson
『錄音帶中麥可說的話有愛麗森的翻譯:「盛田先生、盛田先生、盛田先生。我是 Michael Jackson 。請您無論如何都要好起來。請快快好起來。您為引導我們而存在,您是我們的老師、指導者,我們只是後生小輩。您教了我許多事。您是非常堅強的人。我相信您。請您在腦海中反覆想著『無論如何我都要一天一天好起來』」。在長達26分鐘錄音帶中,偶爾會穿插歌聲來鼓勵盛田先生。尤其是【我正感覺漸漸好起來】這句,反覆唱了三次,每次之間都會停頓幾秒,似乎要讓盛田先生也跟著唱」』。

我在早上叫醒昭夫的10分鐘前開始播,就寢前聽完整捲錄音帶讓他入睡。大約6年多,每天持續直到昭夫去世。
1998年,Michael在夏威夷演出(盛田先生腦中風後在夏威夷靜養)。我推著坐輪椅的先生,到ALOHA STUDIO看表演。
隔天Michael到我們的別墅來探病。昭夫很開心但無法說話。現在還是會回想起他那溫柔的樣子。


昭夫已離開10年。現在Michael正在對他最尊敬的老師、交心的友人,如同他一直在做的,「要怎樣抓住年輕人的心」、「要怎樣才能更受人尊敬」、「我該相信誰」,昭夫應該正在接受Michael的連番問題轟炸吧。

無法相信任何人,對小孩子與動物才能放鬆的Michael,現在正在天堂不需要顧慮誰而安穩沉靜的休息中吧。

“I NEED YOUR HELP” 他打了好幾次電話給我。剛好是10年前的事。
現在很後悔為什麼那時候我沒有好好的聽他的心聲呢。
那正好是昭夫病的最重的時期,我沒有多餘的心力。

抱歉,Michael。
但是我相信,現在你正在一個不需任何人幫助的快樂世界裡。
2009年7月7日 盛田良子

 
  マイケル・ジャクソンとの想い出

2009年6月25日、マイケル・ジャクソンが此の世を去りました。
私と主人昭夫が、マイケルの公演を初めて観たのは、1987年横浜スタジアムの時でした。彼の音楽、そして抜群のダンスに魅せられて、私共は東京の自宅から横浜スタジアムへ、公演後はそのままウィークエンドを、別荘で過ごすべく箱根湖畔の家に向かいました。
現在のように携帯電話もなく、道路事情も悪く、夜半に別荘に着いた私のところに東京の家から電話がかかり、先程からマイケル・ジャクソンのマネージャーから度々電話がかかってきて、是非、ミスター盛田と話がしたいので、何時でもいいから電話を下さい、とのこと。私は急いで彼のホテルに電話をしました。

彼は、「今日、ミスター盛田が来て下さったことのお礼を言いたかったのです。そして今日は自分が100%満足のいくショーが出来なかった。声も出なかった。次回の公演には必ず今日以上のショーをお見せしたいので、是非又おいでいただきたい」と言って幾度も謝っていたそうです。
アーティストには、これが最高ということはありません。いつもいつもより良いものを作る努力をしています。それを人はわがままと言うかも知れません。


 
この後、彼は日本滞在中、ちょうど私の誕生日の自宅のパーティに参加してくれました。それがここに載せてあるスナップです。
ベジタリアンでほとんど肉・魚を食べない彼はご覧のように、私が用意した季節の果物 『二十世紀』、大皿一杯の梨を一人でかかえて食べてしまい、とうとう私共同席の者には一つも口に入らなかった記憶が甦り、今でも我が家の話題の一つです。


 
彼は我が家にある昭夫のおもちゃである自動ピアノやオルゴール、ミニチュアのストリートオルガン、さてはエジソン記念館から贈られた珍しいローカンのエジソンレコードを見つけて、一晩中子供のように楽しんで過ごしました。
 
この日本滞在中に、彼はソニーの本社、信濃町にあった当時のCBSソニースタジオ、ソニー・メディアワールド、銀座ソニービル等を訪問し、新しいソニーの製品の数々を手に取っては、次々と質問する何にでも興味を示す好青年でした。 私達は、お約束通り、1992年東京ドーム公演に招待され出掛けました。楽屋ではいつもオフィシャルな写真が撮れるようにスタジオが出来ており、いつも素敵な写真を撮っては数日後サイン入りで送ってくれたものでした。

1996年12月、ヒストリーツアーが東京ドームで開催されました。その時は、昭夫は既に病に倒れていましたが、どういう経緯か忘れましたが、私は彼の泊まっていたキャピトル東急に迎えに行き、同じ車に乗ってドームまで走りました。車の周りをファンの車が囲み、タクシーで追いかける人もありました。車が赤信号で止まる度に窓から、紙切れ、ハンカチが渡されます。彼は快くそれを受け取って、急いでサインをして、それをファンの方に渡すのは私の役目でした。キャピトル東急からドームまで幾人の人にサインしたか、彼は嫌な顔一つ見せず、喜んでサインしている姿を隣で手伝いながら、この人って本当に心の優しい人なんだなと、つくづく思いました。


 
彼は昭夫に会うことを本当に楽しみにしていました1995年「ヒストリー」が発売されました。その折彼は、昭夫の為に特別な盾を作り、アルバムにもサインをしてプレゼントしてくれました。 彼の送ってきた盾には、

“THIS ALBUM OF MY MUSIC WARMLY DEDICATED TO AKIO MORITA… 永遠の友情 FOR OUR EVERLASTING FRENDSHIP. WE ARE LIVING IN THE SAME DREAM FOREVER… WITH ALL MY LOVE”
と書かれております。

1993年10月、昭夫が病に倒れたその時、海外から一番初めに届けられたメッセージは、マイケル・ジャクソンからのものでした。
それは彼自身が作ったヒーリングテープでした。彼は彼自身の声で幾度も「ミスター盛田、ミスター盛田…」と呼びかけていました。「あなたは必ず良くなる。必ず話せるようになる…」。そして、彼の選んだ静かな曲が流れます。再び又同じ様に「ミスター盛田、…」。彼の呼びかける声が幾度も繰り返されるテープでした。そのテープの箱には彼自身の手書きで次のことが書かれていました。
『これを朝、昼、晩にかけて聴いて下さい。マイケル・ジャクソン』と。



マイケル直筆メッセージのカセットレーベル

私は、昭夫が朝起きる時間の10分前からこのテープをかけ、そして夜ベッドに寝かせてからこのテープが終わるまで聴かせて休ませることにしました。これは、6年余の間、昭夫が亡くなるまで、毎日続けられました。

1998年、ハワイ、ホノルルでマイケルの公演がありました。車椅子の主人を押して、このショーを観に私はホノルルのアロハスタジアムに出掛けました。
翌日、彼は私共のハワイの別荘に見舞いに来てくれました。昭夫が顔をくしゃくしゃくにして喜んだのは、申すまでもありません。今もその時のマイケルの優しい姿を思い出します。
昭夫が世を去って10年。

今頃、マイケルは彼が最も尊敬する先生であり、心の友でもあった昭夫に、彼がいつもしていたように、「どうしたら若い人達の心を掴むことが出来るだろうか」「どうしたら自分はもっともっと尊敬される人になれるだろうか」「誰を信じたら良いのだろうか」とマイケルの質問攻めに合っていることでしょう。

誰も信じる事が出来ず、子供に動物に安らぎを見出していたマイケル。
今天国にあって、静かな安らぎの中に、誰に気を遣うことなくゆっくり休んでいるのでしょう。
“アイ ニード ユア ヘルプ” 幾度も彼から電話が私に掛かって来ました。丁度10年前のことです。私はあの時、どうしてもっと彼の本当の声を聴いてあげなかったのか、と今悔やまれてなりません。昭夫の病状が一番悪い時で、私にはその余裕がなかったのです。
ごめんなさい、マイケル。

でも、私は今、あなたは誰の助けもいらない幸せな世界に居られると信じております。

2009年7月7日 盛田良子

 

沒有留言:

張貼留言